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2022上期に読んだ本

※過去に別のブログで書いた記事を編集&移行させました※

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読んだ本の感想を書くという試み、一冊ずつやろうと初めは思っていたのだけど、全然無理だった。そのうち1ヶ月ごとでいいか…となり、さらにはいや半期ごとでいいや…となりここまでズルズルきた。ちゃんとした文章を書こうと思うからハードルが高くなるので、ささっと書きたい。

 

『わたしたちが光の速さで進めないなら』

絶対に傷つきたくないときに読みたい。

次の一節だけでもこれ読んでよかった〜ってなった。

 

そしてわたしたちはやがて知ることになる。その愛する存在が相対している世界を。その世界がどれ程の痛みと悲しみに覆われているかを。愛する彼らが抑圧されている事実を。オリーブは、愛とはその人と共に世界に立ち向かうことでもあるってことを知ってたのよ。(p46)

 

『Schoolgirl』

面白かった。ちょっと村田沙耶香っぽいな〜と思った覚えがあるけど詳しくは忘れてしまった。多分現実がぐにゃ〜ってなる部分があるところで、そういう部分がある本が大好き。

 

『聖女伝説』

多和田葉子おもしろすぎる。言葉、熟語、単語がそのまま流れていかず、言葉がそれ自体でもつ力、イメージがいちいちストーリーに引っかかってくる。初めて見たものみたいに、言葉を、世界を解釈できるのがおもしろい。少女の、男や自分の身体への嫌悪感・違和感みたいなものが直接的でなく表現されていてそこも好き。

 

『ヒカリ文集』

新作出るのがこんな楽しみな作家いない。読んで、松浦理英子の何が好きって登場人物が魅力的なことだなと改めて思った。

刊行記念のオンラインイベントも各所で企画されてて、2回参加して、作品の背景とか知れたのもよかったな。イベント見てたら、松浦理英子が、小説の構造について「真実が一つではないということを示せるので入れ子構造が好き」と言っていた。確かに入れ子構造って小説が多層的になって想像の余地が広がるよね。

ヒカリの本性や謎を解き明かすようには書きたくないとも言っていた。松浦理英子の小説はクライマックスもなければ時間をかけて到達するべき中心点もなくて、これは松浦理英子の、性器中心主義からの脱却というテーマと明らかに対応するものだと思う。

 

あとは松浦理英子が読者の考察ブログを読んで、自分の想定外の考えがあってすごく面白かったしこれぞ批評!と思ったという話とかは衝撃だった(ブログとか読むんだ…)。そして「つまらないものもありました」とはっきり言うところ、大好き。

 

それにしても新刊が出るとそれだけで嬉しいのに、こんなオンラインイベントも開催されて好きな作家本人から裏話聞けるなんて刊行って最高だな…と思った。次の作品も待ち遠しい。

 

『最愛の子ども』

再読。好きすぎていつかこれだけでしっかり感想書きたい。この作品のことを思うと希望に満たされる。『最愛の子ども』は松浦理英子の「皮膚感覚的な気持ちよさ」の要素が一番強いと思っていて、それは直接的にそういう描写が多いからというのもあるし、文体とかも。部分的でなく全編を通して読む快楽を感じる。

 

自転車泥棒

歴史的、ロケーション的にスケールが大きくて、自分の間近でない世界に触れられた。戦争の描写を含むということもあり全体として決して明るい話ではないけれど、文体が諦念的だったり慈愛を感じられたりで穏やかな気持ちで読めた。

 

『死者の奢り・飼育』

かなり面白かった。特殊な状況と起こる出来事のショックが段違い。

 

現代思想入門』

めっちゃくちゃ分かりやすい。私は何か考えるときに物事のよい面・悪い面を考えて「押したり押し返されたりというのを繰り返すような状態」が続くことが多く、優柔不断なのをどうしたものかなと思っていたりしていたので、「未練込みでの決断」が「倫理性を帯びた決断」でありそれができる者こそが本当の大人だと解釈されていてやや嬉しかった。

 

・・・すべての決断はそれでもう何の未練もなく完了だということではなく、つねに未練を伴っているのであって、そうした未練こそが、まさに他者性への配慮なのです。・・・そこがデリダ的な脱構築の倫理であり、まさにそうした意識を持つ人には優しさがあるということなのです。(p52)

 

『信仰』

表題を含め、どの作品もいつもの好きな村田沙耶香だった。けど一番よかったのはエッセイが収録されていたことかも。

「クレージーさやか」という自分のあだ名について、仲間内でそう呼ばれて嬉しかったけれど、それが広まることを自分でも受容したことで誰かを傷つけてしまったという話。

 

笑われて、キャラクター化されて、ラベリングされること。奇妙な人を奇妙なまま愛し、多様性を認めること。この二つは、ものすごく相反することのはずなのに、馬鹿な私には区別がつかないときがあった。・・・あ、やっぱり、これは安全な場所から異物をキャラクター化して安心化するという形の、受容に見せかけたラベリングであり、排除なのだ、と気が付いた。そして、自分がそれを多様性と勘違いをして広めたことにも。(p116-117)

 

村田沙耶香は、これを「一生背負っていく罪」とまで言っていて、こんなふうに配慮ができるこの人のことをとても信頼できるなと思った。

「クレージーさやか」は確かにキャッチーでとても分かりやすいけれど、誰かを分かりやすく把握するというのはやっぱり溢れ落ちる細部があるということで、その人のことを本当には見れていないんだろうなと思うし、その「クレージー」さがテレビで見せ物として取り上げられるのはやはり残酷なことだなと思う。

 

『むらさきのスカートの女』

またゾッとする話でよかった。こんなふうに冷たい現実、確かにあるよね。

これも後半にエッセイが何本か入っていてそれもよかった。「とにかく小説が書けない」ということを何回も述べていて、新作書くたびに「これで最後にする」と言っているとも。書くことが全然楽しそうではなくてびっくりしたけど、素直でいいなと。

 

『オーランドー』

ずっと読みたかったので読めてよかった。予想通りあまり理解はできていないのだけど、文章が美しい。

 

なぜならふたりはお互いを知りつくしていたから、もうなんでも言えた、というのは以心伝心、なにも言わないのと同じこと、つまりなにか言ったとしても、オムレツの作り方とか、ロンドンで一番上等な深靴を売っているのはどこだとか、およそつまらない平凡なこと、その背景から切り離すと生気を失ってしまうけど、そのままだとすばらしく美しい、そんなことを話し合ったのだから。・・・だからとても日常的な会話こそもっとも詩的であることも多く、もっとも詩的なことはまさに文字に書けないのだ。そういうわけで、ここにたっぷりの空白を残してそれで充足のしるしといたしましょう。(p221)

 

以上です。本当は電子でも何冊か読んだけど割愛…。

上半期、振り返ると仕事がまぁまぁ大変だったな〜という印象が強く、これはひとえにキャパ不足であり本当は仕事のための勉強とかするべきなんだけど、やっぱり余暇は好きなことしたいが勝ってしまう。この半年で読みものとして面白いものを色々読めたので、下半期は難しめの本を読んで、触れる前と後とで自分の一部でもどこか変わったなと思えるようなものに出会いたい。